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2019.04.24

この娘(津田梅子)にしてこの父(津田仙)あり~新5千円札の表面の人物となる津田梅子の父は農業保護政策を批判した国際派だった~

WEBRONZA に掲載(2019年4月10日付)

  • 山下 一仁
  • 研究主幹
    山下 一仁
  • [研究分野]
    農業政策・貿易政策
明治初期の破天荒な国際派・津田仙

 津田梅子が新5千円札の表面の人物となる。彼女は日本女性初の海外留学生で、津田塾大学の創立者として有名である。

 梅子の父津田仙(1837~1908)は幕末から明治初期にかけて日本屈指の国際派であり、キリスト教徒で教育者だった。仙も青山学院大学の創立に関わり、彼の死後ともにキリスト教徒である内村鑑三と新渡戸稲造(二代前の5千円札表面の人物)は追悼文を表している(教育者である新渡戸稲造は津田塾大学の顧問にもなっている)。

 梅子は仙の後を追っているようだ。梅子が岩倉使節団に随行して留学したのも、仙とこれを企画した黒田清隆との縁からである。仙も梅子と同様(というより梅子が似たのだろう)、スケールの大きな人物だった。

 本稿では今は忘れられている仙の活動と思想を紹介したい。梅子を理解する際の助けになれば幸いである。


内村鑑三が教壇に立ち、伊藤博文が演説した学農社農学校

 津田仙は佐倉藩士の子として生まれ、藩命によってオランダ語、英語を学び、幕府の軍艦引き取り交渉のため、三人の通訳の一人として福沢諭吉とともにアメリカに随行している(通訳としては、福沢はあまり役に立たなかったようである)。

 津田は1873年にはウィーン万国博覧会に佐野常民の書記官として随行し、オーストリアにいたオランダの農学者ホイブレンクから農業の指導を受けた。その口述をまとめた『農業三事』は当時のベストセラーになった。帰国後キリスト教の洗礼を受け、同志社の新島襄、東京帝大の中村正直とともに「キリスト教界の三傑」とうたわれた。

 明治政府は西洋の農業技術を直接導入しようとした。その中心となったのが大久保利通である。彼は1873年に内務省を設立し、本格的な殖産興業に取り組んだ。

 大久保は1872年に農業の試験研究機関として内藤新宿試験場、農業教育機関として1875年に札幌農学校(のちの北海道大学農学部)、1878年に駒場農学校(のちの東京大学農学部)を設置するなど西洋の農業技術の導入・奨励に努めた。

 このような官の動きとは別に、民間において西洋の農業技術を我が国に積極的に紹介・導入しようとする動きがあった。それが津田による学農社の活動である。

 津田は1875年に東京・麻布に、農産についての書籍・雑誌の出版、農産物の栽培・販売・輸入などを事業とする学農社を設立した。翌年、学農社農学校を開校した。

 この農学校は予科2年、本科3年とされ、予科では英語教育、本科では農業教育に重点を置き、すべて原書を教科書として使用した。ただし、学生によれば、その教育方法は原書を読んで農業技術を習得することに重点が置かれ、英語の会話力向上には役に立たなかったという。

 この農学校には内村鑑三らが教壇に立ち、伊藤博文、松方正義、黒田清隆などがよく演説を行った。1881年のピーク時には明治初期の学校としては多い175名が学んでいた。1876年学農社が発行した「農業雑誌」の創刊号には、ジョージ・ワシントンの"Agriculture is the most healthful,most useful and most noble employment of man."(農業はもっとも健康的で、有益で、かつ人類の最も高貴な職業である)が記されていた。

 「農業雑誌」は西洋の農業技術の紹介のほか、商品作物の栽培技術の普及なども行った。また、学農社は西洋の果樹や野菜の種苗の通信販売を行っている。これが日本最初の通信販売だと言われている。津田の啓蒙活動によって、山梨県のブドウやワイン、大阪泉州の玉ねぎなど地域の特産品が生まれた。


自主自立の精神に立った農水省不要論

 津田は、民間の事業は事業家が自主自立の精神によって切り開くべきであり、政府が農業を保護すべきではないと主張する。農商務省(今の農林水産省)の保護政策は民間による農業振興・発展を阻害していると言うのである。

 農商務省が今日迄の経歴に於てその保護の跡を尋ねて当初の目的を達したるもの実に何物かある。我輩は茲に農商務省の廃置を論ぜんとするに非るも、従来農商務省の保護政略が民業を妨げたることは論者と共に其非を鳴らさざるを得ざるなり。凡そ民業の発達は事業家が自家の力に依頼し全幅の精神をその事業の上に注ぎて初めてその功を見るべきものなり。然るに政府が保護を与うるの弊は、或は事業に熱心ならざる人に浮利を博するの投機心を発せしめ、或は自立の精神なき人に起業の依頼心を生ぜしめ、結局受恵の事業は終始真面目に之を従事するものにあらざるが故に、其事業の結末を見ることを能はざるのみならず、他の誠実なる事業家を害し遂に国家全体の民業を衰退せしむるに至る。(『農業雑誌』[1890]第三七四号 注:原文に句読点がないため、句読点は筆者が行った。以下同じ)

 保護政策が民業の発達を妨害している例として、津田は民間の農会組織(農業団体)が必要であることは認識するが、現実の組織は農商務省の役人によって運営されており、民間の事業者の創意工夫を排除していると批判する。

 実際、農会におけるかなりの役職は農商務省の役人で占められていた。明治政府は、帝国議会の選挙権のほとんどを持っていた上層農や地主が民間の政党と結びつくことを懸念し、彼らの関心を農事の改良に集中させるとともに政府官僚組織に結び付けようという意図をもって、農会の組織化を推進していたのである。

 津田もこのような事情は承知していたのだろうか、欧米の民間組織と異なり、農会は官主導であるので発展しないと批判している。

 茲に政府の保護の実功なき手近なる一例として大日本農会を見るべし。同会はその創立の初めより農商務省の懐ろに育てられ、多分の養育料を得て其保護は農商務省の官吏がその任に当られ、流石に官辺の余光を以て一時は八千余人の会員を名簿に登せたりと雖も、斯る装飾的の農会は決してその景気を永年に維持すること能はざるなり。今や其会員は漸く前年の半数にまで減じたり。今日の衰微は決して世の不景気によるものにあらざるなり。唯斯る組織の農会が今日の社会に不適当なるに由れるのみ。我輩かつて之を論じたることあり。曰く凡そ上より干渉して成りたるものは至極体裁はよろしくして一時は盛んなるが如きも、到底久しきを保ちて益す益す成長する如きものにあらず。実に国家に益ありて次第にその繁栄をみるは当業者が熱心を以て結合するにあり。欧米諸国の農会及び農業俱楽部の如きものは渾て官辺の人の手によりて漸く成りたるものに非るなり。即ち資産に富むの有志者は之が為に多資を投ずるを惜まず又事業熱心家は其協同によりて互に相益せんとして力を尽すを惜まざるなり。我輩は実に我邦に農会の盛んなるに至らんことを切望せり。然れども官辺の夤縁に依りて漸く立ち万事御役所風の農会を見るを悦ばざるものなり。(『農業雑誌』[1890]第三七四号)

 農会は民間の農業者が設立・運営している組織ではなく、その設立に努力した品川弥二郎も農商務省の役職を離れた途端、農会とは関係が切れてしまっていると指摘する。

 此大日本農会の性質を見れば不幸にして素と民間農事熱心家が奮って之を設立し之を維持するものに非らざるなり。即ち之が創立者は農商務省の官吏なり。其役員となりて事務を主催する者も官吏なり。又其事務を扱ふ所の顔ぶれを見れば貴顕若しくは府県知事の如き人物なり。斯の如く其設立の初めよりして実業に従事する所の熱心家より成りたるものに非ず而して、その設立の当初に最も拮据尽力せられたる品川弥二郎氏その人にして即ち該会の幹事長たりしが、一朝氏は農商務大輔の職を去られしと共に今は農会には殆んど関係なき局外の人なるが如し。(『農業雑誌』[1890]第三六九号)

 傳田功滋賀大学名誉教授は津田の思想を次のようにまとめている。

 津田仙ないしは学農社の人々にとって、農民における不羈独立の気性こそが日本農業を発展せしめる根源であり、農民団体たる農会もまた官辺の余光に拠らざる自主的な農民の組織であって、始めてその機能を充分に発揮するに至るとなすのである。すなわち彼等においては、中央集権的な政策目的のために、生産者ないし実業者の自由独立の積極的な生産活動や企業行為が拘束されることが、政府保護政策の害悪として批判されるのである。(傳田『近代日本農政思想の研究』未来社[1969]P96参照)


プロテスタントの精神

 津田の思想の背景には、プロテスタントの精神があった。彼はウイーンに滞在中キリスト教が広く信仰されていることに驚き、いずれ日本でもキリスト教が信じられるようになるだろうと思ったという。

 キリスト教を信仰するに際し、カトリックとプロテスタントを比較している。カトリックの国は不道徳な事例も多く経済も振るわないのに対し、イギリス、ドイツ、アメリカなどプロテスタントの諸国は国運が隆々として日進月歩の勢いがあるとして、プロテスタントを信仰している。彼はプロテスタントの精神によって、日本に資本主義的な利潤追求型の合理的な農業経営を普及させようとしたのである。

 彼が目標としたのはアメリカである。アメリカは農業の隆盛とキリスト教の真誠によって栄え、その富と道徳においてこれに比肩できる国は世界にないと言う。

 また、津田の指導を受け、ともに学農社で活動した巌本善治(バイオリニスト巌本真理は孫)は、農家は貧しい生活に甘んじるべきだという当時官民で広く主張された勤労節倹主義の論調を次のように批判する。

 「曰く農夫は食におごる可らず節倹第一なり、曰く農夫は近来身の程を忘れて此の不景気を惹起したりと雖も、日本農業の振起せざる、日本農民の発達せざる、一に其の美食美処せずして、旧地位に安んずるの故に因らざるなきを知らざるなり。故に凡そ今の改革者たらんものは、先ず勉めて斯の如き弊風を破壊し去らざる可らず。」また「農家は生計の成るべく低く衣食住の成るべく不足なるを以て可なりとする者、今日の世紀に尚多くあること実に驚くべき限りならずや。農民は質素倹約して米飯を食うに憚るべしと教へ、而して拮据澠勉他民にまさりて労力すべしと言ふは、恰も是れ人を餓しめて之を走らす如し。(中略)農民をして益々働かしめんには、其のいよいよ良食を食い山海の珍味をも朝夕に味ふに至らせんことを希ひ、又農民をして益々心志を発達させ其の気性を豪大にするに効ありとならば、其のいよいよ衣食住を高尚にして絹を衣、楼に住うに在らせんことを望む。余は農民の生計の益々高まりて、其の為す所の仕事の益々大ならんことを希望するものなり」(『農業雑誌』[1888]第二三〇号)

 農民に勤労節倹を強いるのではなく裕福な生活を望ませることによって、農業を振興すべきだと言うのである。さらに、機械を利用した農業を振興し、故郷や米作などにとらわれず、利益のあることであればどこにも赴き、またどのような農業も試みるような、利潤追求型の資本主義的な農業を展開すべきだと言う。

 日本の農業をして労働の時代を去って器械の時代にうつらするやうに取計ふべし。日本の農民をして身の程を忘れ唯我独尊の気象をも養成せしむる様取計うべし。旧国古郷に安んぜずして何処の地にも移住する習性を出でしむべし。作米作圃のことのみを以て農業となさせず凡そ利のある所何の事と雖も皆之を行はんとの覚悟を作らしむべし。(『農業雑誌』[1887]第二五三号)

 津田や巌本の主張とは反対に、その後の農業は政府への依存度を強めていった。農家も農業経済学者も困ったら政府が援助や保護を行うのが当然だという気質になってしまった。農業者が政府に依存することなく、自主自立の精神を持って、企業的に農業経営をすべきだという、現在の農業界なら新自由主義だとして非難するような主張が、津田たちによって明治の初期に行われていたことは注目に値する。


その後の農業

 大久保や津田の官民の努力にもかかわらず、気候・風土や、一農家の経営する農地が零細で分散するなど、自然や経済的な条件の異なる日本では、西洋の農業技術の導入は必ずしも成功しなかった。

 津田の学農社農学校は事業費の負担が大きく1884年に閉校となり、学生たちは政府によって1878年に設立された駒場農学校に移っていった。

 このような中で、官民とも、江戸時代以降の在来農法の改良・発展、老農と言われる篤農家の活用を基本とするようになった。英米的な大農経営に適合した洋式用具や舶来種苗の活用などの農業技術ではなく、日本的な小農経営と結びついた多肥料集約型で土地面積当たりの生産力を向上させようとする技術の普及が図られるようになった。これがいわゆる明治農法である。


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