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2019.04.10

未来が見えない「大学という病」

中央公論 2019年4月号(2019年3月10日)に掲載

 今月号の特集テーマでもある「文系と理系」「大学」について思うところを書きたい。まずは、理系と文系の人材の固定化の問題である。

 筆者は、大学院まで理系で数理工学を学び、修士号取得後に通商産業省に事務官(文系職)として1991年に入省した。当時は理系から文転就職する人間は限られていた。多少は風通しが良くなったとはいえ、いまでも理系・文系の分断はあまり変わらない。十八歳で大学に入学するときに理科系と文科系に分かれ、それが一生、固定化する。このようなシステムは、日本経済が先進国にキャッチアップする途上にあった1970年代までは社会に適合していたかもしれないが、日本がフロントランナーになったその後の時代にはそぐわない。

 たとえば、銀行など金融業界は文系人材の牙城だったが、そのために日本は金融工学の爆発的な進歩に乗り遅れた。また、IT分野で技術的に新しいビジネスが誕生しにくいのは、理系人材に経営センスなど文科系の素養が足りないからかもしれない。

 もう一つの問題は、過去三十年で進んだ大学院重点化である。大学教授は、昔は学部に所属していたが、いまは多くの場合、大学院に所属する。これは、大学院の定員を増やし、大学院教育に重心を移す大学院重点化に沿った人事の変更とされる。一方、一般的に、学部所属の教員より、大学院所属の教員の方が、給与水準が高くなるという。某国立大学の教授陣が、教え子の官僚たちより自分たちの給与水準が低いことに常々不満を持っていたことが、大学教員の大学院移行のきっかけだったとかなかったとか。真偽は定かではないが、そういう噂が霞が関ではささやかれていた。

 大学院重点化は、大学院生の定員を増やし、研究者となる人材を大量に育成して、国全体の研究能力を高めることを目的としているが、あまりうまくいっているとは思われない。日本人のノーベル賞受賞者が出るたびに、受賞者の方々は口をそろえて、日本の若手研究者の研究環境が悪化していて、このままでは次の時代に日本からノーベル賞受賞者が出なくなってしまう、とおっしゃっているが、まったくその通りだと思う。博士号取得者の生活はあまりにも過酷だし、日本の大学は、研究資金などの面でも環境が劣悪である。

 大学院生の定員が激増した結果、博士号取得者は毎年大量に生み出される一方、大学教員のポストは少なく、博士号取得者の生活はまったく安定しない。毎年、何十件もの教員ポストの公募に応募しながら、任期付きのポストを渡り歩くような生活が四十歳前後まで常態化していて、研究や教育に集中できない。

 また大学の研究環境の悪化も深刻だ。国の財政悪化のため、国立大学の運営費交付金(教員の給与や研究費に充てられる)は近年まで1%ずつ削減されていて、減額分を補うために、大学は短期のプロジェクトを立ち上げて、プロジェクト単位で追加予算をもらうようになった。そのため、国立大学の超一流の研究者たちが、文部科学省の官僚を喜ばせるための「グローバルなんとかプロジェクト」のような企画書を作文するのに忙しく、研究に使う時聞がない、と嘆いているのだという。

 これでは、日本の大学の研究環境は、物量で劣るのは精神力でカバーできる、と強弁していた昔の日本軍みたいな話になりかねない。財政再建は必要だが、国の持続性を考えるなら、財政支出のうち、高齢者向けの何割かを子供たちの未来のため、そして、大学などの次世代の研究者のために振り向けるべきだと心から思う。


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