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2019.07.10

CO2削減シナリオのウソ

NPO法人 国際環境経済研究所HPに掲載(2019年6月26日)

  • 杉山 大志
  • 研究主幹
    杉山 大志
  • [研究分野]
    資源・エネルギー、環境

シナリオによる政策操作


 20年ほど前、小生の知り合いだったインド人の女性は、「政策決定者を操作するなんて簡単よ。シナリオをあげればそれで終わり」と言い放っていた。たしかにシナリオがいくつか描いてあると、政策決定者はそれに相当囚われる。パリ協定の2度以下という温度目標や、今世紀後半にCO2をネットでゼロにするという排出削減目標は、結局はIPCCが用意したCO2削減のシナリオ(=正式にはRCP2.6シナリオという)をそのまま採択したようなものだった。IPCC報告書は分厚くて、沢山のことが書いてあるけれども、結局、政策決定に影響したのは圧倒的にシナリオだけで、他は殆ど何の影響もなかった。


シナリオは選択肢になっていない


 国際交渉では、シナリオは将来についての「選択肢」であり、政策担当者はそこから選択を迫られるのだ、という図式が設定される。そうすると、温暖化が進むシナリオより、温暖化が進まない方が道徳的だということで、COPのような政治ショーの場では、温暖化しないシナリオが選択されることになる。だけれども、シナリオは本当に「選択肢」になっているのか?

 パリ協定で採択したシナリオは2100年までに温室効果ガス排出がネットでゼロ以下になるとしている。そこでは、高い環境税を世界全体で導入して、CO2排出を大幅削減することになっている。高い環境税と一口にいうが、これは石炭も石油も天然ガスも全く使えないほどに価格が高騰する環境税だ。これを一国で導入するだけでもありえないのに、世界全体で歩調をそろえて導入するなど、もっとありえない。どの国も自国の経済や雇用を守らないとそもそも政権も国も維持できないだろう。それに、世界では軍事的緊張もあちこちにある。世界全体でかかる高額の環境税を導入するとなれば、IPCCのシナリオは暗黙に「世界平和を前提としている」としか考えられない。

 しかし、世界平和は「選択肢」なのか? その可能性が無いとは言わないし、それに向けた努力を進めることも良い。しかし、それは温暖化問題に関しての「選択肢」ではない。世界が平和とは限らないというのは、温暖化問題を考えるにあたっては与件であろう。常識的には、「選択肢」というものは、制度、予算、人員など、一定の現実的制約の範囲内で実現できるもののことを指す。しかし、2度シナリオは、かなり荒唐無稽な前提のもとでしか実現しえないから、全然、常識的な意味での「選択肢」になっていない。


Wishful thinking に過ぎないシナリオ


 むしろ、このようなシナリオは、運動家の「こうあるべき姿」や「こうすれば実現できるはず」という科学的根拠の希薄な願望wishful thinking を、数値モデルを用いてもっともらしく肉付けしたものに過ぎない。口の悪い米国の友人は、「シナリオはみんなインチキ(bull shit)だ。だけど切れ味が良い(crisp)と言っていた。

 IPCCのCO2削減シナリオも、その例に漏れない。2007年の第4次報告では、2度を達成するシナリオは、実現可能性があまりに低い、と殆どの研究者は考えていて、ごく一部のグループしか検討していなかった。それが、パリ協定に向けて政治的な注目が高まると、ものの見事に2度のシナリオが2014年の第5次報告では多数出てきた。さらにその後、2015年に採択されたパリ協定で1.5度という目標にも注目が集まると、これまた見事に2018年のIPCC1.5度特別報告書に間に合うように1.5度のシナリオが出てきた。どのような温度目標でも、それに合わせたCO2削減シナリオはいくらでも量産されるわけだ。中身を見ると実現可能性の殆ど無いシナリオばかりだが、それをきちんと実現可能性が無いと言わず、さも選択肢であるかのように見せたのは、IPCCの誤りだ。


シナリオは前提条件を巡って議論するためにある


 シナリオは、フィージビリティ・スタディでもない。フィージビリティ・スタディというと、実施可能性があるかどうか検討するというものだが、CO2削減のシナリオはそこまで行きつかない。いくら精緻なモデルだと誇ってみても、あまりにも任意の設定が多すぎて、「実施可能性がある」と言い切ることはまずできない。

 ではシナリオはどのように使うべきか。

 マヨーネが遥か以前に著書で述べているように注1) 、CO2削減のシナリオは「フィージビリティ・アーギュメント(実施可能性についての主張)」と呼ぶべきものだ。CO2削減のシナリオは、何かを客観的に分析しているものではなく、何かを主張するときの道具立ての1つである、と解釈すべきということだ。モデルには必ず任意性があり、モデル分析者の主観が入るので、完全に客観的なものにはなりえない。しかし、ある主張の妥当性を検討するためには、モデル分析がなされ、その前提や結果が公開されていると、より詳しい議論ができる。議論の中には、シナリオにおける任意の設定、暗黙の設定など、様々な前提条件が含まれるはずだ。シナリオ分析は、このような議論に供するためには有益である。まったく定量化されていないのでは、議論の焦点がなかなか定まらないからだ。

 

 するとIPCCのシナリオは、ありえない前提を沢山置いているから、どうやら「現在の知見では、このシナリオは実現しそうにない」と結論するためには、有益な情報だった筈な訳だ。ところが、現実に起きたことはまるで逆で、前提条件を巡る議論は全く起きないまま、パリ協定で目標が採択された。これには、シナリオを意図的に誤用させた、研究者、運動家、政策決定者が絡んでいる。

 

 このようなことを防ぐにはどうすれば良いか。荒唐無稽なシナリオについては「王様は裸だ」と堂々と指摘すること、そして、シナリオの前提条件を巡って徹底的に議論することであろう。

 

 注1)マヨーネ著、政策過程論の視座―政策分析と議論、三嶺書房、1998年。

 

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